本に書かれた佐竹の話 ・古書資料 ・高村光雲懐古 ・佐竹人飾り ・鹿島孝二 ・女百話  ・斉藤茂吉 ・幸田露伴 ・川田順

 第 一 章
秋田 久保田藩主、佐竹右京太夫の江戸屋敷には、上屋敷中屋敷・下屋敷のほか、お囲地などがありました。このうち、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあったそうで、そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」があったといいます。しかし天和二年(1682年)十二月二十八日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失してしまいました。こんなこともあってか、翌天和三年(1683年)には現在の台東区の地に移転したのであります。

   三味線堀より望む佐竹右京太夫 江戸上屋敷  秋田 仁平裕一氏所蔵 屋敷見取り図 ・上屋敷史

移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられており、山本北山、大窪詩仏など、有名な師を招いて子弟の教育にあたらせたといいます。
幕末期の安政二年(1855年)には、ここに居住する人員百三十六名に及んだと記録されております。

江戸屋敷の役割は、各藩とも藩主の常住地ともいうべき場所で、わけても藩主夫人は徳川幕府の人質のようなかたちで居住を強制され、国元には専ら第二夫人がいて、これをお国御前と申しておりました。各藩の江戸屋敷は、幕府の監視のもとにありながらも、それぞれ国元のお城よりも江戸屋敷を大切にしたといわれております。

参勤交代の制度は、江戸中期の頃から乱れがちとなり、各藩の経済的困窮から経費節約の意味からも、藩主はほとんど江戸に常住するようになったのです。そして江戸屋敷を母体として、種々の政治折衝や各界との交際、情報の交換・収集などをおこなって藩の運営の糧とし、それと共に新しい文化の吸収に努めたといわれております。ですから各藩とも、より抜きの有能な士を江戸家老留守居用人として江戸屋敷詰めにしたのでありましょう。

秋田の久保田城(現秋田市内)から江戸までの道のりは百四十三里(536キロ)あり、当時は一日九里(36キロ)前後を歩いたといますから、普通で十六日早くて十二日半の日数を要し、飛脚でも六〜七日かかったと申します。先に記しましたように、各藩にとってその江戸屋敷は重要な政治的、文化的拠点であり、自国の一部がそこに存在していたのも同然であります。現今の諸外国が設ける大使館の比ではなかったでありましょう。だからこそ佐竹藩も、広大な敷地に、当時としてはまったく希有な三階建ての豪壮華麗な建物を設け、他に誇ったのでありましょう。
屋敷の西側には大番与力同心の組屋敷があり、そこにあった総門を竹門と呼んでいたそうで、ここから「竹町」の名前が生まれたといわれております。


    明治41年頃の三味線堀  ※左手が佐竹商店街
  第 二 章
明治維新の後、廃藩置県が実施され秋田藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。
明治二年(1869年)には、火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り佐竹っ原といわれるに至ります。明治五年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともあるようです。そのころは戸数六十八戸、住民数は二百六十八名。周辺に比べ最も閑静な場所でありました。

しかしながら明治十七年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街、佐竹の商店街の萌芽が形成されたのです。年を経るごとに盛り場娯楽街として充実発展してゆきます。
かっぽれ、吹き矢、デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店、粟餅の曲搗き、しるこ屋、煮込み・おでん、大福餅売りなどが縁日の露店のような形で店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになります。

六三亭、久本亭、浜村亭、天理亭、寿亭、開成亭などがその主なものです。さらに祭文定席、玉ころがし、射的、大弓場などもでき、義太夫、講談、落語、祭文かたりが聞け、ゆで小豆を売る店などが並びます。

そして日暮れ時ともなれば、浅草向柳原に住む露店商などが街路にところ狭しと出店を張り、また一歩路地にはいれば紅灯の下で客引く声も艶かしく、亀屋・竹内などの料亭を始め、第二富士館という活動写真館もできて一段と賑やかさを増し、一大歓楽境となってゆきました。近郷近在は無論のこと、遠方からも人々が集まり、夜の更けるのも忘れてしまうほど殷賑を極めました。

大正初期には戸数三千八百十三戸、人口一万二千三十四名にまで膨張、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったのです。

大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災は、佐竹全域ことごとく灰燼に帰し、一面の焼け野が原と化してしまいました。しかし罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町、京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどの賑わいを取り戻すことができました。

現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、火伏せの神・火貝土之尊をご祭神といたしますが、もと秋葉ヶ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを明治二十二年(1889年)下谷佐竹屋敷跡地に移した(※大日本地名辞書)説と、明治十九年(1886年)6月の朝野新聞に佐竹ヶ原の秋葉教会所の縁日が賑わったとの記載があり、詳細は不明でした。

※平成25年2月研究者の方よりの情報により 明治18年1月20日の読売新聞に次の記事があり「秋葉の遷座 今日ハ深川御船蔵前町の秋葉中央寺に安置の秋葉神社を今度下谷竹町の佐竹の原へ遷座し安置式を執行する其道筋ハ御船蔵前より万年橋を渡り河岸通り永代橋を渡り小網町通り堀留大門通り大丸にて小休み夫よら弁慶橋通り柳原へ出て右へ美倉橋を渡り三味線堀より竹町の教会所へ着の手筈なりといふ」この記事から佐竹秋葉神社の創建が解りました。
昭和五年(1930年)、現在地に社殿を造営したもので、毎年十一月十五日に大祭を、また毎月二十四日をご縁日として戦前までは参道に露店がぎっしりと並び参詣の人々は引きも切らず、誠に賑やかなものでありました。商店街も二十四日を特売日としてサービスをしており、戦後も四の日特売は昭和四十年代まで続きました。

昭和十一年(1936年)東京市の調査では店舗は全部で百十六店でした。(約半数の六十三店が衣料関係品店、食料品店十四店、その他の店三十九店)。

昭和十六年(1941年)太平洋戦争の開戦と共に世の中は軍事一色に塗りつぶされ、「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語のもと消費生活は徐々に狭められ、物資は軍事優先に使われて行き、主な生活必需品は配給制度となり、企業整備の名のもとに、小売業は不要とされ閉店を促し、事業主・従業員は軍需工場に徴用され、慣れぬ工場労働にかり出されました。当然商店街は火の消えたようなありさまで、まさに暗黒の時代に突入していったのです。

昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と、翌二十年(1945年)二月二十五日の雪の降る昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失してしまいました。売るに物なく、買うに人なきありさまでしたが、終戦となるや直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、個々の店の努力と協同の力で不死鳥のごとく瞬く間に往事の賑やかさを取り戻しました。
昭和二十八年(1953年)に竹町公園で行われた商店街主催の盆踊り大会は盛大に行われ、特設舞台での演芸には初代の林家三平師匠も出演しました。その頃、商店街には店員さんも多く、商店街内で野球チームが3,4組出来ていました。昭和三十五年(1960年)には協同組合を結成、さらに三十八年(1963年)には振興組合に改組しました。

昭和三十九年(1964年)新住居表示採用にともない、町名としての「竹町」は消え、台東と変わりましたが、佐竹の名は町会名及び商店街として絶える事なく後世に伝えられてゆく事と信じます。 また、昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願とした全蓋アーケードがついに完成、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工し、ここに名実共に都内屈指の商店街として完成したのです。

また、当時の特売セール(ゲバゲバモーレツセール)の夜七時から行われたタイムサービスは買い物客であふれ、近所のお風呂屋さんの女湯が空になったと言われました。
昭和五十一年(1976年)夏に「秋田まつり」のタイトルで夏祭りを実施し企画部員が竿灯を製作して、竿灯の演技も披露しました。数年後の「秋田まつり」では、秋田市のご協力で本場の実物の竿灯を寄贈いただき、秋田市の職員による竿灯演技も行われました。

五十二年(1977年)五月にテレビ朝日の人気番組「電線音頭」の録画撮りが行われ、雨天の中、商店街は収録風景を見ようとする子供達であふれ、多くの人波の為、お店によってはシャッターを閉める程でありました。出演者は竹町生まれの伊東四朗さん他でした。
平成十一年(1999年)三月二十八日、午後七時より日本テレビの「商店街ドミノ倒し」全国生中継がおこなわれアーケード内、百五十メートルを平成小PTA、ボーイスカウトなどの協力を受け、ドミノ(VTRテープ)をならべ、テレビ局でも生放送でやったことがない一大イベントの生中継を成功させる事が出来ました。最近では商店街が映画(デスノート、クロサギ、二十世紀少年)、テレビドラマ(税務調査官・窓際太郎の事件簿、時効警察、婚カツ!、コールセンターの恋人、産婦人科ギネ)、CM(チオビタドリンク、オロナミンC、風邪薬カコナール、NEWクレラップ)等の撮影に数多く利用されています。

昭和五十七年(1982年)九月二十七日、旧佐竹藩主の後裔佐竹義栄氏を始め、秋田姓氏家系研究会(会長杉沢文治氏)会員の諸氏が佐竹氏江戸邸史跡等探訪のため当地を訪問されました。
これが機縁となって親善交流を深め、秋田市長の来街、相互訪問等を重ねております。平成二年秋には親善交流十周年を記念事業を実施し、佐竹商店街のお客様に秋田を訪問していただく企画も催しました。

佐竹のみならず、昨今商店街をめぐる商業環境は予断を許さぬものがあります。しかし先人多くが幾度とない危機を乗り越え、発展を続けた努力を見習い、お客様に愛され、お役に立てる街としてさらに精進を重ねてゆきたいと思っております。
どうぞご叱声を心からお願い申し上げます。

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