本に書かれた佐竹の話
高村光雲回顧録
 
佐竹の原繁盛の話  下谷西町で相変らずコツコツと自分の仕事を専念にやっている中に、妙なことで計らず少し突飛な思いつきで余計な仕事を遊び半分にしたことがあります。これも私の思い出の一つとして記憶にあること故、今日はそのことを話しましょう。
  
 その頃(明治18年の頃)下谷に通称「佐竹原(さたけっぱら)」という大きな原がありました。この原の中へ思いつきで大仏を拵えたというはなし……それは八角形の下台ともに高さが4丈8尺あった。奈良の大仏よりは1丈ほど小さいが、鎌倉の大仏よりよほど大きなもの、今日では佐竹の原も跡形なくちょっと今の人には想像もつかないし、無論その大仏の影も形もあることではない。夢のようなはなしではありますが、それがかえってはっきりと思い出されます。
 
 私の住んでいる西町から佐竹の原へは2丁もない。向こう側は仲御徒町で、私の宅からは初めての横町を右に曲がり、これを真っ直ぐに行くと生駒屋敷の裏門となる。西町の通りを真っ直ぐに浅草の方へ向いて行けば左側が七軒町、右が小島町で今の楽山堂病院のある通りとなる。竹町は佐竹の原が形を変えて市街となったので、それで竹町というのであって、佐竹の屋敷を取り払った跡が佐竹の原です。
 
 東南に堀があって、南方は佐竹の表門で、その前が三味線堀です。東方が竹町と七軒町の界で この堀が下谷と浅草の界だと思います。七軒町の取っつきまでが1丁半位、南北は2丁以上、随分屋敷は広かったものです。それが取り払われて原となってぼうぼうと雑草が生え、地面はでこぼこして、東京の真ん中にこんな大きな野原があるかと思う位、蛇や蛙などの巣で、人通りも希で、江戸の繁盛が打ち毀されたままで、そうしてまた明治の新しい時代が形にならない間の変な時でありました。
 
 すると、誰の思い附きであったか。この佐竹の原を利用して、今でいうと一つの遊園地のようなものに使用という考え……それほど大仕掛けではないが、ちょっとした興業地を此処へ拵えようと出願したものがあって、原の或る場所へいろいろのものが出来たのであった。まずお定まりのかっぽれの小屋が掛かる。するとデロレン祭文が出来る(これは浪花節の元です)。いずれもよしず張りの小屋掛け。それから借り馬、打毬場、吹き矢、大弓、その他色々な大道商売位のもので、これといって足を止め、腰を落ち附けて見る物はないが、一つの下等な遊戯場のような形になって来ました。
 
 それで人がぞろぞろと出る。陽気は春に掛かっていてぽかぽか暖かくなって来るし、今まで狐狸がいそうな原の中が急にこう賑やかになったのであるから、評判が次第に高くなって、後にはこの原に通う人で西町の往来は目立つようになって来ました。こうなると、それにつれてまた色々な飲食店が出て来る。粟餅の曲搗きの隣には汁粉屋が出来る。吹き矢と並んで煮込みおでん、その前に大福餅、いなり寿司、などとごった返して、一盛りその景気は大したものでありました。
 
 といって別にこれといって落ち着いて、深く見物しようなどというものはない。いわば縁日の本尊のないようなもので、なんという「きまり」もなく、ただ一時の客を呼んでドンチャンと騒いでいました。
 
 私は、西町の例の往来の見える仕事場で仕事をしていると,ぞろぞろ前を人が通る。これが皆佐竹の原に行くのだということ。花時に上野の方へ人出の多いのは不思議がないが、昼でも追い剥ぎのでそうな佐竹の原へこんなに人出があるとは妙な時節になったものだと思って仕事をしていたことであった。
 
佐竹の原へ大仏を拵えたはなし  私の友達に高橋定次郎氏という人がありました。この人は前にも話しましたとおり、高橋鳳雲の息子さんで、その頃は鉄筆で筒を刻って職業としていました。上野広小路の山崎(油屋)の横を湯島の男坂の方へ曲って中ほど(今は黒門町か)に住んでいました。この人が常に私の宅へ遊びに来ている。それから、もう一人田中増次郎という蒔絵師がありました。これは男坂よりの方に住んでいる。どことなく顔の容子が狐に似ているとかで、こんこんさんとあだ名をされた人で、変わり者でありましたがこの人も定次郎氏と一緒に朝夕遊びに来ていました。
 
 お互いに職業は違いますが、共に仕事には熱心で話もよく合いました。ところで、もう一人、やはり高橋氏の隣に住んでいる人で野見長次という人がありました。これは肥後熊本の人で、店は道具商で果物の標本を作っていました。枇杷、桃、柿、などを張り子で拵え、それに実物そっくりの彩色をしたものでちょっと盛り籠に入れて置物などにもなる。縁日などに出して相当売れていました。
 
 この野見氏の親父さんという人は、元、熊本時代には興業物に手を出して味を知っている人でありましたから、長次氏もそういうことに気もあった。この人も前の両氏と仲良しで一緒に私の宅へ遊びに来て、互いに物を拵える職業でありますから、話しも合って研究し合うという風でありました。
 
 或る日、また、4人が集まっていますと、相変わらず仕事場の前をぞろぞろ人が通る。私たちの話は彼の佐竹の原の噂に移っていました。
 「佐竹の原も評判だけで、行って見ると、からつまらないね。何も見るものがないじゃありませんか」
 「そうですよ。あれじゃしょうがない。何か少しこれという見世物がひとつ位あってもよさそうですね。何か拵えたらどうでしょう。旨くやれば儲かりますぜ」
 「儲ける儲からんはとにかく、人を呼ぶのに、あんなことでは余り智慧がない。何かひとつアッといわせるようなものを拵えて見たいもんだね」
 「高村さん、何か面白い思いつきはありませんか」
というような話になりました。
 
 「さようさ……これといって面白い思いつきもありませんが、何か一つあってもよさそうですね。原の中に拵えるとなると、高価なものではいけないが、といってちっぽけな見てくれのないものでは、なおさらいけない……どうでしょう。ひとつ大きな大仏さんでも拵えては……」
 
 冗談半分に私はいい出しました。皆が妙な顔をして私の顔を見ているのは、一体、大仏を拵えてどうするのかという顔つきです。で、私は勢い大仏の趣向を説明して見ねばなりません。
 
 「大きな大仏を拵えるというのは、大仏を作って見物を胎内へ入れる趣向なんです。どのみち何をやるにしても小屋を拵えなくてはならないが、その小屋を大仏の形で拵えて、大仏を招ぎ(マネギ)に使うというのが思いつきなんです。大仏の姿が屋根にも囲いにもなるが、内側では胎内くぐりの仕掛けにして膝の方から登って行くと、左右の脇の下が瓦燈口(ガトウグチ)になっていてここから一度外に出て、印を結んでいる仏様の手の上に人間が出る。そこへ乗って四方を見晴らす。外の見物からは人間が幾人も大仏さまの右の脇の下から出て、手の上を通って左の脇の下から入って行くのが見える。
 
 それから内部の階段から曲がりながら登って行くと、頭の中になって広さが2坪くらい、ここにはその目の穴、耳の穴、口の穴並びに後頭に窓があって、そこから人間が顔を出して四方を見晴らすと江戸中がひと目に見える。4丈8尺くらいの高さだからあらましの処は見える。人間の5〜6人は頭の中へ入れるようにして、先様お代わりに遠めがねなどを置いて諸方を見せて、客を追い出す。下りてくると胴体の広い場所に珍奇な道具などを並べ、それに因縁をつけ、何かおもしろい趣向にして見せる。この前、笑覧会というものがあって阿波の鳴門のお弓の涙なんて瓶に水を入れたものを見せるなどは気が利かない。もっと面白いことをしてみせるんです……」  
 
 「……そうして切りの舞台に閻魔さまでも踊らして地獄もこの頃はひまだという有様でも見せるかな……なるほど、これは面白そうだ」
 「大仏が小屋の代わりになるところが第一面白い。それで中身が使えるとは一挙両得だ。これは発明だ」
など高橋氏や田中氏は大変おもしろがっている。ところが野見氏は黙っていて何ともいいません。考えていました。
 
 「野見さん、どうです。高村さんのこの大仏という趣向は……名案じゃありませんか」
高橋氏がいいますと、
 「そうですな。趣向は至極賛成です。だが、いよいよやるとなると、問題は金ですね、金次第だ。親父に一つ話して見ましょう」
 
 野見氏は無口の人で多くを語りませんが、腹では他の人よりも乗り気になっているらしい。私は、当座の思いつきで笑談半分に妙なことをいいましたが、もし、これが実行された暁、相当見物をひいて商売になればよし、そうでなかった日にはとんだ迷惑を人にかけることになると心配にもなりました。
 
 野見長次さんは早速親父さんにその話をしました。
 野見老人は興行的の仕事の味をわかっている人。これは物になりそうだ。ひとつやってみたいというので、長次さんが老人の考えを持って来て、また4人で相談して、一応、私はその大仏さまの雛形を作って見るということになりました。(実の所は雛形を作っても大工や仕事師に出来ない。また金銭問題でやめになるに違いないとは思いましたが、とにかく、自分でいい出したことだから雛形に掛かりました)。
 
 その日は竹屋に行って箱根竹を買ってきて、昼の自分の仕事を済ますと、夜なべをやめて、雛形に取りかかりました。見積もりの4丈8尺の20分の1すなわち2尺4寸の雛形を作り始めたのです。まず坪を割って土台をきめ、「しほん」といって4本の柱をもって支柱を立て、箱根竹を矯めて円蓋を作り、その「しほん」に梯子段を持たせて、いつぞやお話しした百観音のさざえ堂のぐるぐる回って階段を登る行き方を参考としまして、漸々と下から登って行く仕掛けを拵えて行きました。
 
 最初が大仏の膝のところで、次は脇の下、印を結んでいる手の上に人間が出られるようになる。それから左から脇を入ってゆくのが外から見え、段々と顔面に掛かり、口、目、耳、へ抜けるように竹をねじって取り付けます。……雛形は出来たがこれは骨ばかり、ちょっと見るとなんだかさっぱりわからない。変なものが出来ましたが、張り子紙で上から張って見ますと、案外、ありありと大仏さまの姿が現れてきました。
 
 「おやおや何を拵えているのかと思っていたら大仏様が出来ましたね」
と家の者はいっております。
 「大仏に見えるかね」
 「大仏様に見えますとも」
といっております。大仏が印を結んで安座している八画の台の内部が、普通の見世物小屋くらいあるわけになります。出来上がったので、それを例の3人の友達に見せました。
 
 「うまくいった。これならまず大丈夫勝利だが、今度はこれを拵えるに全部でいくら金が掛かるかこれが問題です。そこで、この事は仕事師に相談するのが早手回しでこの4本の柱をたよりにして、仕事をするものは仕事師の巧者なものよりほかにない。早速当たって見よう。」ということになりました。
 
 で、御徒町にいた仕事師へ相談すると、これは私どもの手で組み立てが出来ないこともないが、こういう仕事は普通の建物と違い、カヤ方(カタ)の仕事師というものがある。それはお城の足場をかけるとかお祭りの「だし小屋」または興業物の小屋掛けを専門にしている仕事師の仕事で、一種また別のものですから、その方へ相談をしたらよろしかろういうのでありました。それではその方へ話をしてくれまいかと頼むと、早速引き受けて友達を連れて来てくれました。
 
 私はそのカヤ方の仕事師という男にあって見ました。
私の腹の中では、この男にあって雛形を見せたら、おそらくこれは物になりません、というだろうと思っておりました。もし、そういってくれたらかえって私には良かったので、この話はそれで消えてしまう訳。もしそうでないと、話が段々大きくなって大仏が出来るとなると、私の責任が重くなる。興業物としての損益はわかりませんが、もし損失があっては資本を出す考えでいる野見さんに迷惑が掛かることになります。どうか、物にならないとすってくれればいいと思って、その男にあいますと、仕事師はしばらく雛形を見ておりましたが、
 
 「これはどうも旨いもんだ。素人の仕事じゃない。この梯子の取り付けなどの趣向はなかなか面白い。私どもにやらされても、こう器用には出来ません」
といってほめています。それで、これを4丈8尺の大きさに切り組む事が出来るかと聞くと、訳はないという。この雛形ならどんなにでもうまくいくというのです。そして早速人足をまわしましょう、といっております。その男のくちうらで見ると、10日ぐらい掛かれば出来上がりそうな話。野見さん始め他の友達もこれでいよいよ気乗りがしてきました。
 
 しかし、この仕事は「カヤ方」の仕事師ばかりでは出来ません。仕事師の方は骨を組むのではありますが、この仕事は大工と仕事師と一緒でなければ無論出来ません。そこで大工を頼まなければならないので誰に頼もうという段になったが、高橋氏が、私の兄に大工のあることを知っているので、その人に頼むのが一番だという。
   
 なるほど私の兄に大工はあるが、しかしこういう仕事を巧者にやってのける腕があるかどうか、それは不安心、けれども、いやしくも棟梁といわれる大工さん、それが出来ないという話はない、漆喰の塗り下で木舞貫(コマイヌキ)を切ってとんとん打って行けば雑作もなかろう。兄さんを引っ張り出すに限るというので、私もやむなく兄に頼むことに致しました。
 
 そこで、兄は竹を買い出してくる。千住の大橋で、真ん中になる丸太を4本、お祭りの幟にでもなりそうなすばらしい丸太を1本1円3〜40銭くらいで買う、その他お好み次第の材料が安く手に入りました。そこで大工の方で、左官に塗らせるまでの仕事一切を見積もっていくらで出来るかというと(無論仕事師の手間賃も中に入っていて)
150円でやれるということです。それで、兄の友達の左官で与三郎という人が下谷町にいるので、それに漆喰塗りの方を頼んでもらいました。
 
 黒漆喰で下塗りをして、その上に黒に青みを持ったちょうど大仏の青銅の肌のような色を出すようにという注文……それが50円で出来るというのでした。すると、まず
200円で大仏全体が出来上がるということになります。そうして、胎内に古物見立て展覧場を作るとして、色々の品物を買い込むのだが、この方には趣向を主として実物には重きを置きませんからまず100円の見積もり……足りないところはてんでに所持品を飾っても間に合わせるという考えです。
 
それで何から何まで一切合切での総勘定が300円で立派にこの仕事は出来上がるというのでありました。
 「よろしい。300円、私が出します。」
と野見さんはいうのです。何も経験、当たっても当たらなくても、こうなっちゃ損得をいっていられない。道楽にもやってみたい。儲かれば重畳……いよいよ取りかかりましょう、ということになりました。
 
 それが3月の15日で、梅若さまの日で、私が雛形を作ってから10日も経つか。話は早く4月8日釈迦の誕生日には中心となる4本の柱が立って建て前というまでに仕事が運んでいました。最初はまるで冗談のように話した話が、3週間目にはもう柱建っている。実に気の早いことでありました。
 
 さて、カヤ方の仕事師は人足を使って雛形をたよりに仕事に取りかかって、大仏の形をやりだしたのですが、この仕事についての私の考えは、まず雛形を渡しておけば大工と仕事師であらまし出来るであろう。自分は時々見回り位で住むことだと思っておりました。で、膝を組んだ形、印を結んだ形、方の丸みの付けよう……それから顔となって来て顔には大小の輪などを拵えて、外からどんどん木をぶつけて……旨く仕事は運んでいることだと思っておりました。
 
 ある日、私は、どんなことになるかと心配だから仕事の現場へ行ってみると、これはどうも驚いた。まるでめちゃめちゃなことをやっている。これには実に閉口しました。
 
 大工や仕事師は、どんなことをしているかというに、まるで仕事師が役に立たない。先には苦もないようなことをいっておったが、実際に望んではめちゃめちゃです。また、兄貴の大工の方も同様でまるでなっていないのです。たとえば大仏が膝を曲げて安坐をしているその膝頭がまるで三角になっている。ちっとも膝頭だという丸みが出来ておりません。印を結んだ手が、手だか何だか、指などはわからない。肩の丸みなどはやはり三角で久米の平内の肩のよう……これには閉口しました。
 
 「これはいけない。こんなことは雛形にない」と私がいうと、
 「どうも、こうずう体が大きくては見当がつきません。」
 仕事師も、大工も途方に暮れているという有様……そこでこのままで、やられた日には衣紋竿を突っ張ったような大仏が出来ますから、私は仕事師、大工の中へ入って一緒に仕事をすることに致しました。
 
 「私のいうようにやってくれ」というので、指図した。
膝や肩の丸味は三角の所へ弓をやって形を作り、印を結んだ手は片面で、四分板を切り抜いて、細丸太を切って小口から二つ割りにして指の形を作る。鼻の三角も両方から板でせって鼻筋を拵え小鼻は丸太でふくらみをこしらえる……という風に、いちいち仏の形のきまりを大づかみに掴んで拵えて行かせるのですが、兄貴の大工さんも差し金を持って見込みの仕事をするのなら何でも出来るが、こんな突飛な大仕掛けの荒仕事となると一向見当がつきません。
 
 仕事師の方も普通の小屋掛けの仕事と違って、大仏の形にかたどった一つの建物の骨を作るのですから、当たってみると漠然として手が出ません。此処をこうといい付けても間に合わないという風で、私は大いに困りましたが困ったあげく、芝居の道具方の仕事をやっている或る大工をつれて来て、これにやらせて見ますと、なかなか気が利いて役に立ちます。私はこの大工を先に立てて仕事を急ぎました。
 
 それで、私はよすどころではなく毎日仕事場へ行かねばならなくなったわけであります。が、毎日高い足場へ上がって、仕事師・大工たちの中へ入って仕事をしていますと、なかなかおもしろい。おもしろ半分が手伝って本気で汗水を流して働くようになりました。今日では思いも寄らぬことですが、まだ年も若いし、気も盛んであるから、高い足場に上がって指図をしたり、竹と丸太を色々に用いて顎などの丸味や胸などのふくらみを拵えておりますと、狭い仕事場で小仏を小刀の先でいじつているのとはまた格別の相違……青天井の際限もない広大な野天の仕事場で、拵えるものは5丈近い大きなもの、陽気はよし、誰から別段たのまれたということもなく、まあ自分の発意から仲のよい友達同士が道楽半分でやり出した仕事ですから、別に小言の出る心配もなし、晴れた大空へかんかんと金槌の音をさせて荒っぽく仕事をするので、どうも、はなはだ愉快で、元来、まかり間違えば自分も大工になるはずだったことなど思い出して独りでに笑いたくもなるような気持ちになったりしたことでありました。
 
 段々と仕事の進むにつれて、大仏の頭部になって来ましたが、大仏の例の螺髪(ラホツ)になると、ちょっと困りました。俗に金平糖というポツポツの頭髪でありますが、これをどうやっていいか、丸太を使った日には重くなって仕事が栄えず、板ではしょうもない。そこで、考えて、神田の亀井町には竹笊を拵える家が並んでおりますから、そこへ行って唐人笊(トウジンザル)を幾十個か買い込みました。が、螺髪の大きい部分はそれがちょうどはまりますけれども、ひたい際とか、もみあげようなところは金平糖が小さいので、それは別に頃合いの笊を注文して、頭へ一つ一つ釘で打ち付けていったものです。仏様の頭へ笊を植えるなどはなはだ滑稽ではありますが、これならば漆喰のかじりつきもよく、案としては名案でありました。
 
 「やあ、大仏様の頭に笊が乗っかった。」などと、群衆は寄ってたかって物珍しくわいわい云っております。突然にこんな大きなものが出来だしたので、出来上がらない前から人々は驚いているという有様でありました。
 
 ある日、私は、遠見からこれを見て、一体どんな様子に見えるものだろうと思いましたので上野の山に行ってみました。ちょうど、今の西郷さんのあるところが山王山で、そこから見渡すと、右に筋違いにその大仏が見えました。重なり合った町屋の屋根からずっと空へ抜けて胸から以上出ております。空へ白い雲がかかって笊を植えた大きな頭が、ぬうと聳えている形はなんと云うていいかはなはだ不思議なもの……しかし、立派な大仏の形が悠然と空に浮いているところははなはだ雄大……これが上塗りが出来たらさらに見直すであろうと、一層仕事を急いで、どうやら下地は出来ましたので、いよいよ左官の与三郎が塗り上げましたが、青銅の味を出すようにという注文でありますから、黒っぽい銅色に塗り上げると、大空の色とよく調和して、天気の良い時などは一見銅像のようでなかなか立派でありました。(この大仏に使った材料は竹と丸太と木舞貫と四分板、それから漆喰だけです。)
 
 「どうもすばらしいものが出来ましたね。えらいものを拵えたもんですね」
など見物人は空を仰いでびっくりしております。正味は4丈8尺ですが、吹聴は5丈8尺という口上、1丈だけはさばを読んで奈良の大仏と同格にしてしまいました。そこで口上看板を仮名垣魯分(カナガキロブン)先生に頼み、立派な枠をつけ、花を周囲に飾って高く掲げました。こんな興業物的の方は友達の方が受け持ちでやったのでありました。
 
 それから、胎内の方は野見の親父さんの受け持ちで、切り舞台には閻魔の踊りを見せようと云う趣向。そこでまた私は閻魔の顔を拵えさせられるなど、自分の仕事をそっちのけにして忙しいことで、エンマの顔は張り子に抜いてぐるぐる目玉を動かすような仕掛けにして、中へ野見の老人が入って仕草をするという騒ぎ……一方、古物展覧の方も古代なきれとか仏像ような何でも時代がついていわく因縁がありそうなものを並べ、鳴門のお弓の涙などと子供だましでなく、大人でも感服しそうな因縁書などを野見の老人がやって、一切、内外ともに出来上がりまして、いよいよ蓋を明けましたのが確か5月の6日……5日の節句という目論見であったが、間に合わず、6日になったように記憶しております。
 
 この興業物は「見流しもの」といって、ずっと見て通って、見た客は追い出してしまうので、見世物としては大勢を入れるに都合のいいやり方であります。大仏の頭が3畳敷きぐらいの広さで、人間が5〜6人くらいは入れますが、目、口、耳、の窓から外を見ると、先の客は後からせかされて出て行くので、入り替わり立ち替わるという手順で、手っ取り早くできております。蓋が開いた6日初日には果たして大入りでありました。
 
大仏の末路のあわれな話  佐竹の原に途方もない大きな大仏が出来て、切り舞台では閻魔の踊りがあるという評判で、見物人が来てみると、果たして雲を突くような大仏が立っている。客はまず好奇心をそそられてぞろぞろ入る。−興行主は思うつぼというところです。大入りの笊の中には、1杯で50人の札が入っております。10杯で
500人になる。それがとんとんと明いて行くのです。木戸口で木戸番が札を客に渡すと、うち裏にもぎりといって札を取る人がおります。これは興業主で、その札によって正確な入場者がわかるのであります。初日には何でも20杯足らずも笊が明いて、かれこれ千人の入場者がありまして、まず大成功でした。
 
 ところで、物事そううまく行きません。
 初日の景気が少し続いたかと思うと、早くも6月に入り、梅雨期となって毎日の雨天で人出がなくなりました。いずれも盛り場は天気次第のものですから、少し曇っても人は来ない。またこの梅雨が長い。ようやく梅雨が明けると今度は土用で非常な暑さ、毎日の炎天続き、立木一本もない野天のことで、たよる陰もなく、とても見物は佐竹原へ向いて来る勇気がありません。ことに、漆喰塗りの大仏の胎内は一層の蒸し暑さでありますから、わざわざそういう苦しい中へ入ってうでられる物好きもないといったような風で、客はがらりと減りました。
 
 そういう間の悪い日和に出くわして、初日から半月ぐらいの景気はまるで一時の事。後はお話にもならないような不景気となって、これが7月8月と続きました。もっとも、これは大仏ばかりでなく佐竹原の興業物飲食店一般のことで、どうも何ともしようがありませんでした。
 
  私は、この様子を見ると、自分の暇つぶしに言い出した当人で仕方もないが、どうも、野見さん父子に対して気の毒で、何とも申し訳のないような次第ではありましたが、さりとて、今さら取り返しもつかぬ。しかし、野見さん父子はさっぱりしたもので、これが興業ものにはありがちなことで、一向悔やむにはあたりません。いずれ、秋口になって、そろそろ涼風がの吹く時分ひと景気付けましょう。といって気には止めませんが、私はじめ、高橋、田中両氏も何とか景気を挽回したいものと考えている中に残暑が来て佐竹の原は焼けつく暑さで、見世物どころの騒ぎではなくなりました。
 
 「もっと早く、花の咲いた時分、これが出来上がっていたら、それこそ一月で元手ぐらいは取れたんだが、少し考えが遅蒔きだった。惜しいことをした」など、私たちは愚痴まじりに話していますが、野見さんの方は、秋口というもう一つの季節を楽しみにして、ここを踏ん張ろうという腹もあるのですから、愚痴などは一つも云わず涼風の吹いて来るのを待っておりました。
  
 楽しみにしていた秋口の時候にかかってきました。
 ここらを口切りに再び大仏で一花帰り花を咲かそうという時は、もう9月になっており、中の5日となりました。
 この日は本所では牛の御前の祭礼、神田日本橋の目抜きの場所は神田明神の祭礼でありました。(その頃は山王と明神とは年番でありました。多分その年は神田明神の方の番であったと思います)。それで私は家の者を連れてお祭りを見に日本橋の方へ云っておりました。
 
 午後3時頃、空模様が少しおかしくなってきたので、降らないうちにと、家に帰りますと、ぽつりぽつりとやって来ました。好いときに帰って来たよといっているうちに、風が交ざって雨は小砂利をぶつけるように恐ろしい勢いで降って来ました。あたりは真っ暗になったままで、日は暮れてしまって、夜になると、雨と風とが一緒になって、実に恐ろしいあらしとなりました。その晩一晩荒れに荒れて翌日になってやっと納まりましたが、市中の損害はなかなかで近年希な大あらしでありました。どこの屋根瓦も吹き飛ばされる。塀が倒れ、寺や神社の大樹が折れるなどして大あらしの後の市中はさんざんの光景で、私宅なども手厳しくやられました。
 
 が、何より心配なのは佐竹の原の大仏のこと。昨夜の大あらしにどうなったことかと、私は起きぬけに佐竹の原へ行って見ますと、驚いたことに大仏の骨はびくともせず、立派にしゃんとして立っております。しかし無惨にも漆喰は残らず落ちて、着物はすっかりはがれておりました。私はしばらく立って見ていましたが、どうも如何ともしがたい。ただ、骨だけがこう頑丈にびくともせずに残っただけでも感心。左右前後から丸太が突っ張り合って自然にテコでも動かぬような丈夫なものになったと見えます。それに漆喰が取れて、すべて丸味をもった形で、風の滑りがよく、あたりが強くなかったためでもありましょうが、この大仏が出来て間もなく、すぐ向こうの通りに「竹葉館」という興業ものの常設館が建って、なかなか立派に見えましたが、それが、ひとたまりもなく押しつぶされ、吹き飛ばされているから見ますと、大仏は骨だけでもシャンとしていた所は案外だと思って帰ったことでありました。
 
 この大嵐は佐竹の原のすべてのものを散々な目にあわせました。よしず張りの小屋など影も形もなくなりました。それがために佐竹の原はたちまちにまたさびれてしまって、これからひと賑わいという出鼻をたたかれて、二度と立ち上がることの出来ないような有様になり、春頃のどんちゃん賑やかだった景気もひとさかり、この大嵐が元で自滅するよりほかになくなったのでありました。
 
 大仏は、もう一度塗り上げて、再び蓋を明けて見ましたが、それも骨折り損でありました。二度とたてないように押しつぶされた佐竹の原は、もう火が消えたようになって佐竹の原ともいう人がなくなったのでありました。
 しかし、このために佐竹の原はかえって別の発達をしたことになったのでありました。
 
 というのは、興業ものが消えてなくなると、今度は本当の人家がぽつぽつと建って来たのであります。一軒、二軒と思っているうちに、いつの間にか軒が並んで、肉屋の馬店などが皮切りで、色々な下等な飲食店などの店が出来、それから段々ひらけて来て、とうとう竹町という市街(マチ)が出来て、「佐竹ッ原」といったところも原ではなく、繁盛な町並みとなり、今日では佐竹の原といってもどんなところであったかわからぬようになりました。
 
 若い時は、突飛な考えを起こして人様にも迷惑をかけ、また自分も骨折り損。今から考えると夢のようです。  
 
(高村光雲[彫刻家、詩人高村光太郎(智恵子抄で有名)の父]著
                     「光雲回顧談」昭和4年万里閣書房刊から)
高村光太郎回顧録より抜粋

西町の家も文字通りの九尺二間の長屋であった。家の前を上野広小路の方から流れて来る細い溝がかぎの手になって三味線堀に流れていた。

少し行ったところが佐竹原さたけっぱらという原っぱになっていて、長屋の裏手は紺屋の干場になっていた。その佐竹原に、祖父の元の仲間が

儲仕事もうけしごとに奈良の大仏の模品を拵えて、それを見世物にしたことがある。その仕事の設計が余り拙いので、父は仏師だからつい、

心は丸太で、こういう風に板をとりつければよいというようなことを口出ししたのがきっかけとなって、その仕事に引きずりこまれて監督になったらしい。

大仏の中は伽藍洞がらんどうで、その中に階段をつけ、途中に色々な飾りものがあって、しょうつか婆が白衣で眼玉が動いていて非常に怖しかったのを覚えている。

大仏の眼玉や鼻のあなから眺めると、品川のお台場の沖を通る舟まで見えるということであった。之が父の設計で余り岩畳に出来ているので、

後でこわすのに困ったらしく、神田明神のお祭の時にひどい暴風があっても半壊のままだったらしい。父がそんな見世物に手を貸してやっていたことなど、

幸田露伴さんの小説の中にも出ているが、然し露伴さんは谷中に来てからの知合で、その頃はもとよりそんな方面の方とはつきあいはなかった。
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