幸田露伴

「水の東京」明治35年2月発表  (前部分省略  以下括弧内掲載者注)

 浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし。その西に入るものは猿屋町鳥越町等の間を経て、下谷竹町の東、浅草小島町の西に至る。これ いはゆる三絃堀[しゃみせんぼり]なるものなり。この一条の水路もまた不潔と狭隘とを以て人の厭ふところなるが、これまた湿気排除のためと漕運の便とのために重要の一路たらずんばあらず。

元来下谷は卑湿の地にして、西に湯島本郷の高地を負ふをもて、一朝雨雪の大に降るに会へば高処の水は自ら低処に来たりて、下谷は一大瀦水地となるの観を呈す。なかんずく御徒士町 仲御徒士町 竹町等は氾濫の中心となるの勢あり。

されば三味線堀も今も既に不忍の池の余水を受くるといへども、(中略)竹町仲御徒士町等を経て南の方秋葉の原(以下略、本編は幸田露伴の東京論の一つで隅田川とその流れに出入りする主に台東区側の小河川を紹介し、江戸・東京の発展と水の流れを論じている。因みに幸田露伴は慶応3年江戸下谷三枚橋横丁[現上野6丁目4−10あたり摩利支天側の高架下]で生まれている)